ダイエットの成功は原始人が握っている

記事:前田理香(ライティング・ゼミ日曜コース)

 私はこれまでに、幾度となくダイエットという戦いに挑んできた。そしてそのほとんどで負けてきた。いや、途中で「勝った!」と思ったこともあったが、今現在それは勘違いであったと認めよう。

 全ての戦いで負けたのだ!

 思えばこれは親子2代での戦いでもあった。実家には「ぶるぶるベルト」や「スタイリー」という大物があり、母が「紅茶キノコは見た目がダメ」だの「リンゴダイエットは効果がなかった」だのと、冷めた目の父を無視しながら、姉・私・妹に自分の経験を語り続けていた。
 
 母の戦いを、長い間父と同じような冷めた目で見てきた私は、30代に入ると考えが一変した。体重・体形がコントロールできなくなってきたのだ。
 
母は預言者だった。

 慌てた私は様々なものに手を出した。ゆで卵ダイエット、黒酢ダイエット、グレープフルーツダイエット、納豆ダイエット、キャベツダイエット、炭水化物抜きにマイクロダイエット。ただ、母が失敗したものには手を出さなかった。
食べ物だけではない。瘦せる石鹼、塗れば痩せる乳液、エアロビクスにトレーシーメソッド、スポーツジムに入会もしたが、ビリーのキャンプは3日で除隊した。

時には1年で10kg増えた体重を、3か月で元に戻したこともあったが、その後の半年で11kg増やした。いわゆるリバウンドだ。

そしてこの戦いは年齢とともに不利になっていく。基礎代謝が減っていくため、「そんなに食べていないのに」体脂肪が増えていくのだ。
時は流れ、とうとう健康診断で医師から「痩せてくださいね」と言われるようになってしまった。

そんな時に出会ったのが、「ダイエットが成功しないのは、原始人のせいなんですよ」という説を唱える人物。私の師匠となる人だった。
最初の猿人が現れるのが700万年前。石を使い始めるのが240万年前で、火を使い始めるのが180万年前。ホモ・サピエンスの誕生が20万年前だが、なかなか想像しにくい。
地球の歴史を1年に例えてみよう。1月1日に地球が誕生し、最初の猿人が現れるのが12月31日の10時40分。農耕牧畜の開始が12月31日23時58分52秒となる。つまり、人類はそのほとんどを原始人として過ごしていたということだ。

原始人の時代、食べ物はそう簡単には手に入らない。食べられる木の実や植物を採取するか、狩りをして獲物を得るかだ。

便利な道具など持たない原始人にとっては、食料を入手するには大変な労力と危険が伴った。食べられる木の実や植物のある場所には、他の動物も集まってきただろうし、その動物を狙う猛獣もいたであろう。食料の確保は、まさに命がけの行為であった。
その上、命を懸けても毎回食料が手に入るとは限らないのだ。

原始人は常に飢えていたといっても過言ではないだろう。すると、食べ物が手に入った時は、食べられるだけ食べて栄養を蓄えなければならない。次にいつ食べられるかわからないからだ。
そして「飢え」に対する恐怖は、「死」への恐怖でもあった。

私たちのご先祖様である原始人は、何百万年もの間、手に入った食べ物を「脂肪」として蓄えることで、飢えの恐怖を乗り越え生き残ってきたのだ。

私のダイエットの失敗は、飢えの恐怖との戦いに勝った結果だったのだ!

現代人の私たちも、体の機能は原始人の頃とさほど変わってはいない。だから、飢えを感じると脳は、体を省エネモードにして消費を減らすと同時に、体内に脂肪を蓄えよう指令を出す。すると、より空腹を感じるようになり、食べた時の快感も増していく。
通常の食事に戻してもしばらくは飢餓状態が続くため、省エネモードと脂肪の蓄積が津すいてしまうのだ。

無理なダイエットが失敗するだけでなく、リバウンドしてしまうのは、この原始人的な本能が働いているからだったわけだ。

ではどうすればいいのか?

理屈では、脳が飢餓状態を感じない程度の食事コントロールと、エネルギーを消費するための筋肉をつける筋トレ。つまり、消費と摂取のバランスをとっていくことが最も近道であろう。昔から言われている「王道」のダイエット方法が、実は原始人の本能を味方につける方法なのだ。

原始人の話を聴いた時、私はこれまでのダイエットの失敗の理由が腑に落ち、とても感動した。
そうだ。原始人を味方につければいいのだ。

ところが私を含む多くの女性は「魔法」を求める。
できるだけ短い時間で、できるだけお金や努力をせずに、可能な限り美しくなりたい……。

この「魔法」を求める気持ちも、原始人的本能以上に強く、私を惑わせる。
どうやら、魔法を求める気持ちと原始人を味方につけようと思う気持ちの戦いは、まだまだ続くようである。

≪終わり≫

色の世界は人間関係に似ている

記事:前田理香(ライティング・ゼミ日曜コース)

ずっと「ピンク」という色が、なんとなく嫌いだった。

あのフワフワしていて、柔らかそうで、優しそうで、愛らしい「ピンク」という色が、よく分からないがなんとなく嫌いだった。自分には縁のない色のような気がしていた。

それが変わったのは10年前……。

駆け出しのカウンセラーだった私は、自分への投資のつもりで色彩心理を学ぶスクールに通い始めた。最初の課題は「白・黒・青・赤・緑・黄・ピンク・紫について、自分の持つイメージをA4の画用紙に描いてくる」ものだった。
制約は何もない。画材すら自由だった。

今となっては、もともと好きな色だった「白・黒・青」に対して何を描いたか覚えてはいないが、「紫」は宝石のアメジストのイメージでキラキラしたものを張り付け、「緑」は竹林の絵を描き、「黄」はひまわり畑の写真を貼った。

「赤」は、機動戦士ガンダムの「シャァ専用ザク」の赤しか思いつかなかった。
「ピンク」には、ユザワヤで買った羽や毛糸、シフォンなどの布を貼って作った。今思うと、不思議と一番こだわって作っていた。

次の「家族を色で例える」という課題で気が付いた。家族の中で妹のイメージが「ピンク」だったのだ。

5歳下の妹は、小さいころからとても可愛かった。妹を見た大人は口々に「いやぁ、可愛いね!」と言い、その口で「お姉さんには似てないね」と言った。
小さい頃の妹はお人形さんのようだったため、姉のお下がりばかりだった私と違い、お姫様のようなフワフワなピンクのワンピースを買ってもらっていた。
そんなことを、突然思い出した。

そこでようやく気づいた。「ああ、私はずっと妹が羨ましかったのだ」と。
あんな風に優しく可愛らしい雰囲気の人になりたかったのだ。ただ、「妹のようにピンクが似合う人にはなれない」と諦めてもいた。

そして次の課題。自分の人生を「色」で振り返る「カラーヒストリー」というもので、自分に対する自分のイメージ(思い)が、より一層腑に落ちた。

幼児→小学生→中学生→高校生→20代前半→20代後半→30代前半→30代後半……と振り返り、その時期のイメージだったり、実際に好んで着ていた服の色だったりを思い出しながらシートを作成していくのだが、20代前半からの人生がすべて「赤」だった。
所謂「シャァ専用ザク」の赤、闘う赤のイメージだった。

社会に出たての頃の私は、気が強く、尖っていた。女性は結婚や出産をしたら家庭に入るのが当たり前の時代だったし、職場自体も男性の比率が非常に高い職場だったため、ことあるごとに上司から「結婚したら辞めるんだろう?」「どうせそのうち辞めるんだから、仕事覚えてもしょうがないよな」と言われ、責任のある仕事は任せてもらえなかった。その都度「仕事は辞めません!」と言い返していたが、本気にしてはもらえなかった。
経験を積んである程度の立場になってからも、自分の正義を振りかざし、上司であっても強い態度で臨んでいた。そしてそれが正しいと思っていた。

まさに「闘って」いた。
でも、そんな「闘う自分」に対して、時々やりきれなさや虚しさを感じてもいた。それはそうだろう。「優しい人」になりたかったのに、闘っていたのだから……。

そんな思いが、20代以降の全てが「赤」な「カラーヒストリー」を眺めることで、「必死に頑張ってきたのだな」と、自分をありのままに受け入れる気持ちに変わっていった。

妹に対する気持ちも、(もともと仲は良かったが)コンプレックスではなく、愛おしい憧れに変わっていった。

「ピンク」が好きになった。
そして「赤」も、これまで以上に好きになった。

人間関係も、色の世界と似ている。
人との関わりの中で、好きな人、嫌いな人、なんとなく苦手な人、なんとなく気になる人、様々な人がいるが、無意識に自分のコンプレックスが刺激され、好き嫌いに影響を与えているのかもしれない。

私は自分が「赤」のイメージだったからか、「青」のイメージの知的で落ち着いた雰囲気の人に好感を持つことが多かった。
半面「黄」のイメージの人は、なんとなく苦手だったことにも気づくことができた。しかも、同じ「黄」でもトーンが違えば好きな人になる! ということも発見だった。

「色」には好きな色や苦手な色はあっても、良い色や悪い色はない。
そして色のイメージも人それぞれで、同じ「赤」でも、私のように「闘う」イメージではなく、「情熱的」とか「パワー」というイメージを持つ人もいれば、「血」や「災害」をイメージする人もいるだろう。イメージは違っても、どれも間違いではないし、どれも悪くない。

人間には、もしかすると悪い人もいるかもしれないが、色に例えてみると好きな理由や苦手な理由が、少しは見えてくるのではないだろうか。
そうすることで、関わり方も変わっていくのかもしれない。

 あれから10年経った今の私は、「ピンクが似合う」と周囲から言ってもらえるようになった。

≪終わり≫